ながた まさいち
1906(明治39)年1月8日~1985(昭和60)年10月24日 京都府出身 大倉高等商業学校(後に東京経済大学)中退
大映(後に角川映画)設立、フジテレビジョン設立、プロ野球チームオーナー
戦時統制による映画会社統合における東宝・松竹の2ブロック誕生の動きの中で、第三勢力となる大映(後に角川映画)設立に成功
『羅生門』(黒澤明監督)など世界に名を馳せた日本映画を数多くプロデュースし日本映画の最盛期を築く
- 1906(明治39)年1月8日
京都府中京区三条通り油小路下ルに染料友禅問屋・永田芳太郎、紀美の長男として生まれる - 1923(大正12)年
16-17歳 大倉高等商業学校(後に東京経済大学)中退 - 1924(大正13)年12月
18歳 社会主義に傾倒し警察に日夜尾行される身となり母より勘当、一念発起し 日本活動写真(後に日活)京都撮影所 入社、撮影所の見学者案内にて「所内見学は単なる見物であってはならない。映画製作がいかに意義のある仕事であるか、またいかに関係者が真剣に取り組んでいるものであるか、ということを一人でも多くの人に理解させるものでなければならない」と考え積極的に接待、政・財界大物との面識をつくる - 1932(昭和7)年
25-26歳 日活労働争議において、争議団委員長として会社と交渉、争議収拾により手腕を認められ製作部長・総務部長・企画部長兼務に抜擢、事実上の日本活動写真(後に日活)京都撮影所 所長代理に、著名な役者・監督を引き抜き経営再建に尽力、「引き抜き王」と呼ばれる - 1934(昭和9)年8月
28歳 日本活動写真(後に日活) 退社、第一映画社 創業、自社スタジオによる映画製作をスタート - 1936(昭和11)年11月
30歳 第一映画社 廃業、経営不振の 新興キネマ 入社、京都撮影所長 就任、再生を果たす - 1942(昭和17)年1月10日
36歳 戦時統制による映画会社統合における東宝・松竹の2ブロック誕生の動きの中で、第三勢力となる 大日本映画(後に大映、角川映画) 設立(日活の製作部・新興キネマ・大都映画が合併)に成功、専務就任 - 1942(昭和17)年10月10日
36歳 大日本映画(後に大映、角川映画) 設立における贈賄容疑で50日間の勾留、後に無罪が判明する - 1943(昭和18)年3月25日
37歳 大日本映画(後に大映、角川映画) 設立における贈賄嫌疑発生の原因は映画業界からの反発にあるとし経営陣を一新、社長に 菊池寛(文藝春秋創業者、ジャーナリスト)を迎える、専務就任 - 1947(昭和22)年
40-41歳 大映(後に角川映画) 社長就任、『羅生門』(黒澤明監督、1951年ヴェネチア国際映画祭グランプリ受賞)ほか 『雨月物語』・『地獄門』・『山椒太夫』など世界で名を馳せた日本映画を数多く手掛ける - 1947(昭和22)年
40-41歳 プロ野球チーム・大映球団(後に、大映スターズ、大映ユニオンズ、大毎オリオンズ) 設立 - 1948(昭和23)年1月7日
42歳 公職追放 (~1948年3月25日) - 1953(昭和28)年
46-47歳 プロ野球・パシフィック・リーグ 総裁就任、球界再編成を主導 - 1957(昭和32)年11月18日
51歳 文化放送・ニッポン放送 を主体とし、東宝・松竹 と共に、富士テレビジョン(後にフジテレビジョン) 設立 - 1971(昭和46)年
64-65歳 大映(後に角川映画) の経営再建に専念するため、プロ野球チーム・大毎オリオンズ を ロッテ へ譲渡 - 1971(昭和46)年12月23日
65歳 大映(後に角川映画) 経営破綻 - 1976(昭和51)年
69-70歳 永田プロダクション 設立、映画プロデューサーとして映画界に復帰するも、数本の映画製作の後に廃業 - 1985(昭和60)年10月24日
79歳 逝去
参考文献
私の履歴書 - 昭和の経営者群像(3) 日本経済新聞社 1992